リコの興味しんしん

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元プロレスラー・蝶野正洋の人物像を解説!経歴や現在の活躍も!

現在では「ガキの使い」でのビンタ制裁で有名な蝶野正洋さんですが、その人物像はどんなものなのでしょうか。
またその経歴や、現在の活躍も気になりますね。
そのため今回は「元プロレスラー・蝶野正洋の人物像を解説!経歴や現在の活躍も!」をご紹介します!

蝶野正洋の人物像って?



  • 見た目とは裏腹に(?)常識人
  • 奥さんをとても大切にする愛妻家
  • アニメ「ガルパン」をこよなく愛している

などがあります。

順に解説すると・・・

見た目とは裏腹に(?)常識人

蝶野さんと言えば、一見その風貌から「いかつくて怖い人」というイメージを持っている人も多いと思いますが、実は彼はプロレス業界の中でも「超が付くほどの常識人」として知られているんです。

一例を挙げると、蝶野さんは現役時代、リング上で「ヒール」と呼ばれる悪役の役割を担っていたため、時として先輩レスラーに対しても怒気を含んだ口調で激しくまくしたてたり、会社の体制を批判したりといった傍若無人な振る舞いをしていたんですが、それはあくまでもリング上だけのこと。

フォーマルな場でインタビューを受ける際に先輩レスラーの名前を出す時には、たとえ敵対していても必ず「〇〇さん」と言いますし、同期および後輩選手に対しても「〇〇選手」と呼ぶなど、必ず相手をリスペクトした言い方をするんですよ。

また、その外見とは裏腹に(?)とても礼儀正しく謙虚だとも言われていますし、そういう意味ではオンとオフをしっかりと分けていると言えるでしょう。

それはファンの方に対しても全く同じで、街中でサインや写真撮影を求められても断ることが無いどころか、以前街でサインを求めてきたファンの方がペンを持っていないと判るや、嫌な顔ひとつせず自身が持っていたペンで書いてくれたというエピソードもあるんです。

リング上では悪役でも、リングを降りれば選手やファンの方に対して礼儀を欠かさないジェントルマンなのが蝶野さんという訳ですね。

このことから「現役時代のリング上での姿しか知らない」という方が、普段の蝶野さんと接すると「えっ嘘?蝶野さんってこんなに優しくて穏やかな人だったの!?」とびっくりすること間違いなしですよ。

奥さんをとても大切にする愛妻家

既述したように、かつてリング上で悪役レスラーとして名を馳せた蝶野さんですが、家庭では奥さんのことをとても大切にする愛妻家なんです。
ちなみに蝶野さんの奥さんはドイツ人で、1991年に結婚していることから、来年でめでたく30周年を迎えるんですよ。

その馴れ初めをご紹介すると、2人の出会いは1987年。
当時、まだ若手だった蝶野さんがヨーロッパへ武者修行に行っていた時でした。

奥さんの地元であるドイツ・ブレーメンで出会った2人でしたが、当時の蝶野さんは英語が堪能ではなかったために、ご本人いわく「多分言葉の1割も通じていなかった」そうですが、何度かデートを重ねるうちに意気投合。

そして、蝶野さんがブレーメンからアメリカのカンザスという街に移る際、お互いが大切な存在だと気づき、電話や手紙でやり取りすることで中を深め合う中で、1度奥さんが蝶野さんの家を訪ねてきたこともあったんだとか。

ですが当時の蝶野さんは若手ということから多忙を極めていたほか、金銭的な余裕も無かったため、まだ到底結婚は考えられなかったそうなんですが、奥さんの「結婚しないなら、私ドイツに帰る!」の一言で結婚を決意。
言わば「押し切られた」という訳ですね。

そんなお2人の間には現在中学校1年生の長男と小学校4年生の長女がいるんですが、育児に関しては奥さんの日本語が完璧ではないことから、蝶野さんが学校での説明会に足を運んだり宿題を見て教えてあげたりと、奥さんをフォローしながら子煩悩な父親ぶりを発揮しているんです。

このように言葉に出さずに黙って態度で示すというところはどこか不器用な気もしますが、奥さんのことをとても大切にしているということが伝わってきますよね。

ご本人は「俺は奥さんによくいじめられている」と冗談めかして言っていますが、実は蝶野さんが現役時代、入場時に着用していたガウンのデザインは奥さんが手掛けていたなど、全面的にバックアップしていることを考えれば、普段から奥さんの内助の功に支えられているのは明白と言えるでしょう。

アニメ「ガルパン」をこよなく愛している

かつてはプロレスラーとしてイケイケの悪役で活躍していたことから、一見アニメとは接点が無さそうですが、実は蝶野さんはアニメ「ガールズ&パンツァー」(通称・ガルパン)をこよなく愛しており、何と現在はガルパンの応援大使を務めているんです。

僕を含め現役の頃のリング上でのイメージが強い人からすると、簡単には想像できませんよね。

そもそも蝶野さんとガルパンの出会いは、東日本大震災が発生した2011年のこと。
復興支援の一環として被災地を回っている時、ガルパンの舞台となった茨城県大洗町で偶然イベントに遭遇したんです。

最初は中年の男性だらけのファン層に「何だこれ!?」という違和感を感じたそうですが、後にガルパンのグッズ製作を手掛けている「バンダイビジュアル」がガルパンを通して地域復興に貢献していること、またファンの方・ガルパン製作者の方両方から「熱」を感じたことから関心を寄せるように。

また、ガルパンファンの中年男性達がオタク扱いされ、いじめられているのを知り、「基本的にはスポ根で地域貢献もしているのに、そういった熱い気持ちを持ったファンがいじめられているのなら」と自ら名乗りをあげ「ガルパン応援大使」に就任したんですよ。

このエピソードからも、蝶野さんの良い人ぶりがうかがえますよね。

ちなみに、蝶野さんのお気に入りキャラクター、いわゆる「推(お)し」はバレーボール部に所属している「あけびちゃん」だそうで、髪の毛の色が金髪であることから、奥さんと重なって見えるんだとか。

さらに、作品のマスコットキャラクター「ボコちゃん」もお気に入りで、イベントで相撲を取って負けたという面白い逸話もあるほか、女の子同士の友情やお互いに励まし合うようなシーンも好きだと過去のインタビューで言っていました。

繰り返しになりますが、かつてはリング上でイケイケの悪役としてならしていた蝶野さんだけに、そういったイメージは少し湧きづらいものの、彼の意外な可愛らしい一面と言えるでしょう。


では次に、蝶野さんの経歴と現在の活躍ぶりを、入門から若手時代・人気絶頂期から現在までに分けてご紹介します。

経歴と現在の活躍は

入門から若手時代

蝶野さんは1963年(昭和38年)9月17日、東京都三鷹市出身の現在56歳で、1984年(昭和59年)4月に新日本プロレスに入門。
同年10月に行われた、同期の武藤敬司選手との試合でデビューを果たしました。

なお、この2人に故・橋本真也選手を加えた3人は「闘魂三銃士」と呼ばれ、華麗な技で魅せることを得意とする武藤選手や大きな体を利用して相手を圧倒する橋本選手に対し、蝶野さんは「基本を忠実に守るテクニシャン」というタイプの技巧派だったんですよ。

また、若手時代は現在のような悪役ではなく、プロレス用語で「ベビーフェイス」と呼ばれる、いわゆる善玉でしたしね。

そして、入門から3年後の1987年の春にはヨーロッパ遠征を経験し、1989年秋に帰国すると、翌年に行われた東京ドーム大会で同期の武藤敬司選手とのチームで「IWGPタッグ」のチャンピオンベルトを取るなどの偉業を成し遂げました。

そんな蝶野さんの注目度が高まったのは、1991年に初開催され「新日本プロレス・夏の風物詩」として知られている「G1クライマックス」でのこと。
蝶野さんはこの1991年度の大会のみならず翌1992年と二連覇したことで「夏男」と呼ばれるようになったんです。

さらに、1994年の同大会で3度目の優勝を果たした際に「俺はG1男の蝶野だ!文句あるか!」と叫び、突然、悪役(プロレス用語でヒール)へと転身。
思い切った路線変更を行い、現在の姿の原型を作っていきました。

人気絶頂期から現在まで

突然のヒールターンを果たしてからは、翌年1995年に天山広吉選手・ヒロ斉藤選手とのヒールユニット「狼軍団」を、また1997年にはアメリカのプロレス団体WCW」で結成されたヒールユニット「NWO」の日本支部として上記2人のほかアメリカ人レスラーを加えた「NWO JAPAN」を結成するなど、その勢いをどんどんと加速させていきました。

特に、NWO JAPANの勢いは凄まじく、ユニットグッズのひとつとして発売されたNWOTシャツは累計40万枚を売り上げるなど、もはやプロレス界だけにとどまらない爆発的な人気を博したんですよ。
ちなみに筆者である僕も持っていました。

これをきっかけに蝶野さんの人気は絶頂を極め、NWO JAPAN解散後は、またもヒールユニット「TEAM 2000」を結成。

ユニットカラーである黒に身を包んだ多くの仲間を引き連れ、好き放題に暴れまわる総帥として黒のカリスマ」と呼ばれ、プロレス界において押しも押されぬ存在となったんです。

このようにこれまで数々のチームや軍団を作ってきた蝶野さんですが、そのどれもがファンから絶大な支持を集めただけでなく、多くのレスラーが蝶野さんの考えに賛同し加入した理由としては、僕が思うに彼の統率力にあると言えます。

というのも蝶野さんは高校時代に暴走族のリーダーを務めていたことから、仲間を束ねるのがとても上手く、また面倒見も良いんです。

下に付いている人間からすれば、常に自分たちに対して的確な指示を出し、なおかつよく思いやってくれるとなれば、「蝶野さんは良いリーダーだ。これからもしっかり付いていこう」となりますよね。

そう考えれば、これまで蝶野さんと行動を共にした数々のレスラーたちは、彼のその「人格」を慕って付いてきていたと言えるでしょう。

2002年には「G1クライマックス」で4度目の、2005年には5度目の優勝を果たしたほか、新たなヒールユニット「ブラック・ニュージャパン」を結成。

また、2007年には自身がプロデュースを手掛けた興行…その名も「蝶野王国2007」を開催し大成功を収めたことで、「黒のカリスマ、ここにあり」を見せつけました。

ですが、3年後の2010年1月4日の東京ドーム大会を最後に、若手時代からの古傷である首のほか、両膝の治療のため長期休養に。
そして、同年1月末をもって、26年間在籍した新日本プロレスを退団し、フリーランスとなりました。

以降は、新日本在籍時と比べると試合数は減ったものの、単発で行われる興行にコンスタントに参戦。

2014年に行われた「道頓堀プロレス」での試合で勝利を収めて以来、試合からは遠ざかることとなり、2017年に体力維持および体調管理の難しさを理由に休業を宣言するに至りました。

これはあくまでも僕の考えなんですが、やはり古傷の首をはじめ、様々な箇所に爆弾を抱えた状態で長年試合を続けてきたことで、そのダメージが限界に達してしまったのではと思われます。

事実、ご本人もインタビューで「もう今はリングに上がって試合をすることはない。ただ単に引退試合やセレモニーをやってないだけで、もうリングは降りてる(引退している)から」と語っていますし。
そう考えれば、彼の中ではもう現役生活は終わっていると言えるでしょう。

そして現在の活動に目を向けると、長期休業を発表した2010年にAEDの講習を受けた際、消防庁の方から普及に関しての依頼を受けたことをきっかけに、AED救急救命や地域防災の啓発活動をはじめとしたボランティア事業を開始。

また2014年からはAEDの普及や啓発を目的とし「一般社団法人ニューワールドアワーズスポーツ救命協会」を設立。
当協会の代表を務めています。

かつてのリング上でのイメージとはかけ離れているように感じられる現在の活動ですが、蝶野さんがこういったことを行っているのには、かつて新日本プロレスで同期として共に切磋琢磨した橋本真也選手、そして、「プロレスリング・ノア」で社長を務めていた三沢光晴選手の死がきっかけだったんですよ。

お2人が共に40代という若さで亡くなったことに強いショックを受けた蝶野さんは「プロレス界だけに限らず、救急救命の知識があれば、万が一の時でも救える命が増えるかもしれない」と考えたことから、自身が第一人者として活動することを決意。

これらの事業を手掛けているという訳です。

また、1999年12月に奥さんとともに設立したアパレルブランド「アリストトリスト」の代表取締役も務めているなど、プロレスラーとしての現役生活から身を引いた現在でも精力的な活動を展開しています。

まとめ

プロレスラーとしての現役時代は悪役だったものの、プライベートでは常識人で愛妻家の蝶野正洋さん。
これからもその姿勢を貫いて欲しいですね。