リコの興味しんしん

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論語で有名な孔子ってどんな人?創始した儒教についても解説!

道徳の書として有名な論語ですが、その元になる多くの言葉を残した孔子とはどんな人物なのでしょうか。
また、彼が創始したとされる儒教についても気になりますよね。
本記事では、「論語で有名な孔子ってどんな人?創始した儒教についても解説!」をご紹介します!

孔子について

孔子は紀元前552年、中国の魯(ろ・現在の山東省)に、武人の父と身分の低い巫女の母のもとに生まれた思想家で、韓国に深く根付いている「儒教」の始祖としても、その名を知られている人物で、本名を孔丘(こうきゅう)といいます。

名前は孔子じゃないのと思うかもしれませんが、孔子の「子」は「先生」という意味ですので、孔子は「孔先生」という訳ですね。

生い立ち

孔子の生い立ちを簡潔にご紹介すると、わずか3歳で父を亡くしたことから貧しい環境の母子家庭で育った孔子は、14歳から独学で勉学に励んでいましたが、17歳の時に母をも亡くしてしまい、若くして孤児として生活することに…。

こうして見ると、幼少期からかなり苦労していたことが判ります。
こういった経験があったからこそ、彼の死後に弟子たちがまとめた言行録「論語」においても、人に対する思いやりを意味する「仁」や、自身の利や欲に捉われず、世の中や人のために行動することを指す「義」についての記述が多く見られるかもしれませんね。

そして、19歳の時に幵官(けんかん)氏と結婚、28歳前後で魯の役人として倉庫や牧場を管理する仕事を行いながら、それまで以上に勉学に励んでいたと言われていますが、決まった師はおらず、のちに政治に携わるようになってからも、疑問に思うことがあれば人物を問わず頭を下げ、教えを乞うたと言われています。

その熱心かつ謙虚な姿勢から徐々に様々な人から慕われるようになり、この頃に自身初の弟子(おそらく孔子が最も可愛がったと言われる子路(しろ)という人物だと思われます)を取るなど、ようやくその人生が軌道に乗り始めたかに見えました。

ですが、35歳の時に当時魯の第25代君主を務めていた昭公という人物がクーデターに失敗。
斉(さい)という国に追放となったことから、その後を追って同国へ一時亡命したのち再び帰国します。

ここから彼の人生は我々に馴染み深い(?)、弟子たちに対して記述した「仁」や「義」を説き、「先生」と呼ばれるそれへと変わっていきます。
事実、この頃から弟子がどんどんと増えていったようですしね。

その後、10年は弟子の教育に精を出していたものの、50歳を迎えた頃に、斉国からの刺客を見破り、定公(諸侯(しょこう)とも言われ、一定の領域を支配することを許された臣下である貴族を指す)の命を守った功績が認められ、大司寇(だいしこう)と呼ばれる最高裁判官および外交官へと就任。

これはつまり自国である魯の実権を握ることを意味し、「これでこの国を変えることができる」と喜んだ孔子は、自らの弟子の中から武力に優れた者を選出して敵の城壁を破壊する計画を立てるなど、様々な政策を打ち出しましたが、どれもなかなか上手くいかず、頭を悩ませる日々を送っていました。

そんな時、かつて自身の命を狙った斉国から来た女性の踊り子達に夢中になり、政治のことをおざなりにし、自国のことを顧みないふるまいをするようになった定公の姿を見た孔子は、彼に失望し職を降りることを決意。

その後の孔子55歳の時、実に13年間にわたって多くの弟子たちと共に、周辺諸国を旅する周遊生活を始めました。

とは言っても、当然ながら遊びまわっていた訳ではなく、礼儀と道徳を基本とした政治の必要性を説く、いわゆる布教活動をしていたんです。

というのも孔子が生きた時代の中国は、春秋時代という戦国時代だったため、多くの兵士が犠牲となり、社会の秩序は完全に崩壊している状態でした。

考えようによっては、そんな時代だからこそ、礼儀や道徳が必要なんじゃないかというのは一理ある気もします。
ですが、それはのちの時代に生きる人たちが思うことであり、その春秋時代に生きている人からすれば「こんな殺伐とした時代に何を言ってるんだ!」と感じるのが一般的です。
そのため、こういった孔子の考えは全くと言って良いほど受け入れられなかったんですよ。

その後、68歳の時に自国である魯の大臣に呼び戻されて帰国。
大臣のアドバイス役として政治に関わったものの、やはり孔子の考えは受け入れられず、本人もそのことを改めて悟ったのか、以前のような役職に就くことは無く、私塾を開校。

以降は3000人を超える弟子の教育に心血を注いだほか、「易経」や「詩経」といった古典の整理、また自国の魯を中心とした歴史書と言われる「春秋」創作に専念し、紀元前479年に73歳で死去しました。

彼の死後、弟子たちが孔子の言行録をまとめた20編512文から成る「論語」が刊行。
その後、約2500年経った現在でも論語は、「西の聖書、東の論語」と称され、世界中で多くの人達に読み続けられています。

外見と食へのこだわり

政治家としては大成できなかったものの、戦国時代に生きた人物としては非常に珍しく、礼儀や道徳を説いて周るなど、至極常識人だった孔子の外見と、中国人の方であれば誰もが持っていると言われる食へのこだわりをご紹介すると・・・

身長2メートル超えの巨人

驚くべきことに、孔子は身長が216cmもあり、自らの弟子以外の人からは「長人」と呼ばれていたと言われています。

実際に、彼が生まれ育った山東省には現在でも背の高い人達が多いと言われているんですが、それにしても216cmというのは群を抜いた大きさですよね。

ましてや孔子が生きていた時代は今から約2500年も前ですので、その当時であればなおさら珍しく人々の目を引いたのではないでしょうか。

ちなみに、現在の中国や台湾で思想のひとつとして根付いていると言われる「道教」の始祖の1人…「荘子(そうし)」が執筆した同名の書物によると、「(孔子の)上半身は長く、下半身は短く、背中は曲がり、耳は後ろのほうに付いていた」と書かれています。

荘子孔子と対面したのは、おそらく孔子が晩年になってからだったのではと思われます。
背の高さはともかくとして、若年期から背中が曲がっているというのは、ゼロではありませんが、あまりいないですからね。

また、孔子は産まれつき頭頂部が陥没しており、その周りがまるで丘のように盛り上がっていたことから、両親に丘(きゅう)と名付けられたと言われています。

丘のような頭に驚くのではなく、名前の由来にするとは、なかなかユーモアのある両親ですね(そういう問題じゃないかな?)。

食への強いこだわり

次に食に対してですが、孔子は意外にも(?)食に対しては強いこだわりを持っており、十分に精白されているお米や、細かく切った冷肉を好んだ一方で、時間が経って変色したものや煮込み過ぎて型崩れしたもの、季節外れのもの、切り口が雑なもの、その食材に適した味付けがされていないものは食べなかったと言われています。

また、何かの祭祀(さいし・(祭り・祭典の意))でもらった肉は当日中に食べるや、自分の家に供えた肉は3日以内に食べる、食事中には喋らないということにもこだわっていたんだとか。

まるで料理人を思わせるようなこだわりぶりですが、僕が思うにこれは幼少期の貧しかった家庭環境が影響しているのではと推測します。

つまり、その頃は美味しいものを満足に食べられなかったことから、いざそれが可能になった時「美味しいものは美味しい状態の時に食べないと」という思いが、本人の中にムクムクと起きてきたのでしょう。

だからこそ、食に対してこれほどの強いこだわりを見せていたと思われますが、そう考えれば、これは現代に生きる我々も含め、幼少期の家庭環境というものが、その人の性格ひいては人格形成にいかに影響を与えるかが判りますよね。

では次に、そんな孔子が創始したと言われている儒教について見ていきます。

孔子が創始した儒教とは

儒教というのは、
①「仁…人を思いやる気持ち」、
➁「義…私利私欲に囚われず、人間が本来歩むべき正しい道」、
③「礼…仁を行動で示し、人との上下関係で守るべきこと」、
④「智(知)…勉学に励み、人や物事の善悪を正しく判断する知識」、
⑤「信…嘘をつかず誠実である」
の5つからなる「五常の徳」で構成されています。

ちなみに、6つの経からなる「六芸」と言われる教典もあるんですよ。
このうち1つは、もともとなかった、あるいは焚書により失われたと言われています。

宗教ではないにも関わらず、教典があるというのは驚きですが、見方を変えれば孔子がそれだけその当時の春秋時代の世の中を憂い、「この世を何とかしなければ!」という思いにあふれていたということが判りますよね。
もっとも時代のせいもあったのか、その当時、儒教の教えは全くと言って良いほど受け入れられませんでしたが…。

儒教に「教」が付いていることから「儒教って宗教なの?」と思う方も多いかもしれませんが、儒教は宗教ではなく、目上の人に対する礼儀作法はもちろんのこと、物事に対する考え方に至るまで、人々の生活に深く根付いている思想のことです。

事実、韓国では深く根付いており、男女問わず自身よりたとえ1つでも年上であれば相手に対して必ず敬語を使ったり、初対面の人と握手をする際も片手ではなく両手で行ったりなど、日本人以上に目上の人に対する礼儀作法が徹底しているんですよ。

また、「仁」や「義」に関して言えば、自身の身内や友達をとても大切にすることから、何か一大事が起こればたとえ自身を犠牲にしてでも絶対に守ろうとします。

このことからも、韓国には儒教の教えが浸透していることが良く判りますよね。

話を元に戻して、儒教の「儒」とは、「巫祝(ふしゅく)…原始宗教において、神事を司る人)」の意味を持ち、先祖の霊を祀る祭祀を行う人々のことを指していると言われています。
まさに、孔子の母の職業である巫女そのものと言えるでしょう。

孔子が母の影響を受けたのかどうかは定かではありませんが、彼はのちにそれを具体的に体系化し、社会においての道徳理論として創始したんです。

そして彼の死後、その理論および思想は子思(孔子の孫)の弟子と言われる孟子(もうし)などによって知名度を上げていったことから、最終的には漢という国の武帝に認められ、何と国教に定められるまでになったんですよ。

幼少期にいくら苦労したとはいっても、それを判りやすくまとめ、思想のひとつとして創始しただけではなく、結果として1つの国のトップに国教として認められたんですから、その影響力が並大抵ではないことは想像に難くありませんよね。

では、その教えはがどんなものなのかというと・・・

  • 仁を基本理念としている
  • 仁を実践するには礼が必要
  • 理想とする最高の人格は聖人

などがあります。

それぞれ順に解説すると・・・

仁を基本理念としている

儒教の基本理念は「仁」とされており、仁は人を思いやる気持ちや人を愛することを指しています。

孔子は一人一人がこの仁を実践することによって、社会に秩序が保たれると考えていたことから、自らの弟子達に対して常日頃からその大切さを説いていたと言われているんですよ。

確かに、老若男女問わず我々みんながこれをしっかりと実践したとすれば、SNSなどを介した一個人に対する誹謗中傷や、些細な理由からいとも簡単に人の命を奪うといった悪質な犯罪は、ほとんどと言って良いほど起こらなくなるのでは…という気がしますよね。

我々は小さい頃から両親や学校の先生から、「人には親切にする」という至極当然のことを教えられ育ちますが、自身で物事を考えることができる年齢になると、あの子は友達だし大好きだから大事にしようや、あの子は嫌いだから仲間外れにしようといったように優劣を付け、人に対してそういった接し方をしてしまうことがほとんどです。

また、大人になっても、あの人とは仲良くしたほうが得だから関係を深める、何もメリットも無いから関係を継続しないといったように損得勘定で交友関係を決めることもあるでしょう。

言わずもがなですが、これらの行動は先の「仁」からすると、遠くかけ離れた行動ですよね。

だからこそ、我々現代人が儒教について学んだり、その教えが簡潔に解説されている論語を読んだりすると、「頭では判ってるんだけど…」と、図星を突かれたような気持ちになるのではないでしょうか。

そして、考えようによっては、こういった至極当然でありながら実践することが非常に困難な「仁」の行いを、口だけではなく常に行動で示していた孔子が、大勢の弟子たちにとってまさに「先生」と呼ぶにふさわしい存在だったことでしょう。

仁を実践するには礼が必要

孔子は、人間として実践が非常に困難な仁を行うためには、礼(感情を形として表すための規則や行いの意。礼儀作法も含む)が必要だと説いているんですが、これは礼を実践することによって家族の中に秩序が生まれるのはもちろん、社会全体が安定することに繋がると考えたからだと言われています。

事実、それを実証するかのように、儒教の発祥地である中国のみならず日本や韓国でも、この礼は社会における模範となっただけではなく、政治理論としても発展していきましたしね。

また、礼という言葉には当然ながら礼儀作法の意味も含まれているんですが、これはやはり「両親を含めた目上の人に礼儀を尽くす」、「自身を語る際には謙遜し、相手に敬意を持って接する」ということを指しています。

ちなみに、現在の中国では儒教よりも、人間としての大いなる“道”に従っていけば、迷うことなく生きられると説く…「道教」の方が思想としては強くなっており、儒教の精神が色濃く残っているのはやはり韓国であると言えます。

上でも似たようなことを書きましたが、韓国の方々は老若男女問わずとにかく礼儀作法にこだわりますし、もしも目上の人の前でそれを欠くような言動や態度をしようものなら、その人からはっきりと、「君は礼儀というものを知らないのか!」と怒られてしまうことも珍しくないんですよ。

例えばの話、日本であれば、目上の人であっても何度か会話をして次第に親しくなってくると、自然と崩した言い方をするようになりますが、韓国の方は親しくなっても決してそれをせず、相手から「楽に喋ってくれれば良いよ」という趣旨の言葉を言われない限り、必ず敬語で話すんです。

目上の人に対して敬語で喋ることもいわゆる「礼」のひとつですので、このことからも、やはり韓国においていかに礼をはじめとした儒教の精神が根付いているかが判りますよね。

話を仁と礼に戻すと、気持ち(礼)が入っていない状態で仁を行うと、ひょっとすると「計算ずくでやっているな」と相手に見透かされてしまうでしょうし、行っている本人も心のどこかで違和感を感じるのではないでしょうか。

そう…「もしかして自分は偽善者なのかも・・・」というように…。

つまり、「人に親切にする際には、形だけで行うのではなく、きちんと心を込める」ということですので、我々も常日頃から肝に銘じたいものですね。

そう考えると、「仁を実践するには、礼が必要不可欠」と説いていた孔子の考え方は、ある意味「人間としての本質を突いている」と言えるでしょう。

理想とする最高の人格は聖人

儒教で言うところの聖人とは、「この世に生きている人間の完璧な存在」のことで、立派な人徳や優れた知識・教養を身につけた理想的な人物を指す君子と掛け合わせた聖人君子という言葉も、ここから来ているという説が有力です。

また、儒教において聖人というのは、究極の理想的人物とされており、聖人に不可能はないとまで言われているんですよ。

西洋の歴史的人物で例えれば、まるで「余の辞書に不可能の文字はない」という名言を残したフランスの革命家、ナポレオンのようですね。

それはさておき、儒教の教えにおいて、不可能はないと言われるほど人間離れした力を持つ聖人に必ずなるべきと考えてはおらず、あくまで理想として掲げているに過ぎないんです。

事実、孔子も「私は聖人ではない」といった旨の発言をしていたと言われていますし。

儒教創始者である孔子ですらそういった発言をしていることを考えれば、聖人になることがいかに困難なのか、想像がつきますよね。

ただ、儒教は「現実第一主義」という特徴があることから、理想ではなく現実を考えた際に、なるのは修業を積めば実現可能だとされる君子です。

その条件として、上でご紹介した仁、義、礼、智(知)、信の「五常の徳」を満たしている必要があります。

確かに、徳が高くて知識・教養のある人格者を指す君子であれば、日々「五常の徳」を満たすための修業を行っていますので、努力次第で君子に近付ける、あるいは、なれるような気がします。

まぁ…いくらそうであっても、どこかで人間性が屈折していたり、一部分だけが突出していたりでは君子とは言えませんので、相当困難な道程ですが…。

そう考えれば、君子よりもすごい存在である聖人になることがいかにハードルが高いかが判るのではないでしょうか。

孔子ですら「私は聖人ではない」と言っていたほどなんですから。

あくまでも僕の考えなんですが、聖人になることは人間にはほとんど(絶対に?)不可能と言えるからこそ、あえてそれを儒教が理想とする最高の人格として掲げ、孔子を含めた多くの人間が目指そうとしていたのでしょう。

言わずもがなですが、もしも聖人と言える人間が現代に多く存在しているのであれば、人の命を奪うといった様々な凶悪犯罪も起こらないでしょうし、各々が慈悲と思いやりの心を持って共に生きていくことができますからね。

確かに聖人への道は途方もなく長く遠く厳しいものですが、我々いち人間も人に対して優しさや思いやりの気持ちを持ち、自身に対して妥協を許さず、厳しい道であってもあえてそれを選んで突き進む…俗にいう人に優しく・自分に厳しくを日頃から実践するようにしていれば、次第にそれが自身の中で当たり前となり、たとえ牛歩の歩みであっても1歩ずつ聖人に近づくことは可能なのではないでしょうか。

まとめ

若くして孤児となり苦労を重ねたものの、晩年は大勢の弟子に仁や義を説き、儒教を創始した孔子
その思想は、これからも人々の心を打つことでしょう。