リコの興味しんしん

リコの興味しんしん

各々の興味・関心事などに関する雑学を書いていきます。

ジャンヌ・ダルクの人物像と生い立ちって?偉業や名言も

その名前こそ広く知られているものの、人物像の多くはベールに包まれているジャンヌ・ダルク
一体どんな人物なのでしょうか。

また、生い立ちや偉業・名言も気になります。

そこで、今回のテーマは「ジャンヌ・ダルクの人物像と生い立ちって?偉業や名言も」です!

ジャンヌ・ダルクとは

ジャンヌ・ダルクは、1412年フランス・ドンレミ村に生まれ、女性でありながら17歳の若さで軍人として活躍した人物です。

わずか19年という短い生涯ながら、母国・フランスをイングランドとの戦争…その名も「百年戦争」で幾度も勝利に導いたことから、フランスでは現代においても「国を救った英雄」として崇拝されているんですよ。

ちなみに、日本ではTVやインターネット・ゲームなどで取り上げられることが多いからなのか、「名前は知ってるけど、何をした人なのかは全然知らない」と思っている人も多いかもしれません。

名前しか知らないなぁ…という人もこの記事を最後まで読めばジャンヌ・ダルクのことを理解でき、彼女がどういった人生を歩んだのか、そして、どんな人物だったのかがわかりますよ。

いや…ひょっとすると、これまでのジャンヌ・ダルクに対するイメージが覆されてしまう可能性もありますので、あしからず。

では、早速…。

ジャンヌ・ダルクの人物像と生い立ち

ジャンヌ・ダルクの人物像と生い立ちは、どんなものだったのかというと・・・

  • 敬虔なキリスト教徒だった
  • 自身にも他人にも厳しかった
  • とにかく気が強く、怖いもの知らずだった

などがあります。

それぞれ順に解説すると・・・

敬虔なキリスト教徒だった

ジャンヌ・ダルクは1412年1月6日に、フランス東部に位置するドンレミ村で農業を営む両親のもとに産まれたんですが、両親が共に熱心なキリスト教徒(カトリック信者)だった関係で、彼女自身も幼少期からとても信仰に厚いことで知られていました。

それを裏付けるかのように、彼女は物心付いた時から朝・夕と教会へ足を運んで祈りを捧げていたほか、正午を知らせるための教会の鐘が響いた際も自主的に祈るほどであり、1度他の仕事をしていて鐘を鳴らすのをうっかり忘れていた男性に対して、「ちゃんと鐘を鳴らしてくれないと、村の皆が祈れないじゃないですか!」と食ってかかったこともあったんですよ。

食ってかかるのは少しやり過ぎなのではとも思いますが、そういった彼女の姿はまさに敬虔なキリスト教徒そのものですよね。

さて、そんな彼女が母国・フランスを救うためにイングランドとの百年戦争に赴くことになったのは、「神の声」を聞いたことがきっかけでした。

それは彼女が13歳の時。
ある日、外を歩いていると突如「大天使ミカエル」の声を聞いたそう。

初めのうちは、「これまで以上に熱心に教会に通いなさい」や「神の教えを守り、清らかに暮らしなさい」というような、どこか漠然としたものだったんです。
ですが、次第にその内容が「フランスを救いなさい・オルレアンの街を開放し、シャルル王太子を王位に就かせなさい」といった具体的なものになっていったんですよ。

もちろん、ジャンヌは最初「ちょっと何なの?怖い・・・」と思うと同時に、声に対して心の中で「大天使ミカエル様、私はただの一介の農民の娘です。私にそのような大それたことはできません」と丁寧に断っていたものの、3年後の16歳の時、とうとう根負けする形で声に従うことを決意。

その後、紆余曲折を経て、翌年17歳で軍へと入隊。

髪を短く切って甲冑を身に着け、軍人としてイングランドとの百年戦争に身を投じた際も、「私たちが戦うからこそ、神は勝利を与えて下さる」と言って兵士達を鼓舞・勇敢に指揮するなど、ことあるごとに神への忠誠心を口にしています。

そこまで自国の宗教を熱心に信仰しているというのは、「宗教に対して無関心な人が多い」と言われている我々日本人には少し理解が及ばない部分もありますが、彼女にとっては、神の存在こそが心の拠り所だったのかもしれませんね。

なお、彼女のこういった信心深さは戦場へと出向いてからも大いに発揮され、自身にとって初陣であり、当時フランス軍にとって「最後の砦」と言われていたオルレアン解放への布石となった「サン・ルー砦の戦い」で勝利した際は、犠牲となった自軍だけではなく、何と敵軍のイングランド兵達の亡骸にまで丁寧に祈りを捧げ、その際には涙をこぼしたとも伝えられているんです。

繰り返しになりますが、この時、ジャンヌは若干17歳。
同年代の多くの人達が「今が楽しければそれで良い/人のことより自分」という考え方をしている年齢で、何の縁もゆかりも無い赤の他人、ましてや敵軍の兵士に対して涙を流しながら祈る行為は、絶対と言って良いほどできないことですよね。

一般的にキリスト教は「愛を説く宗教」と言われ、教えの中に「隣人(自身の傍にいるもの)を愛しなさい」なるものがあるんですが、それを考えれば、本当に「キリスト教徒の鑑」なる言葉がピッタリ当てはまる人物だったと言えるでしょう。

自身にも他人にも厳しかった

コミックやアニメ、ゲームの世界では比較的「真面目で穏やか・控えめな女性」のイメージが強い(?)ジャンヌですが、実際の彼女は自身にも他人にも非常に厳しい性格だったと言われています。

他人に厳しいという点においては、既述したように正午を告げる教会の鐘を鳴らし忘れた男性に対して激怒したエピソードの他にもいろいろとあるんですが、それと同じように自身に対しても、とてもストイックだったんだとか…。

まだ故郷のドンレミ村で暮らしていた頃の話…、きっかけは不明(おそらくキリスト教の教えに基づいてと思われます)ですが、断食を行ったりしていたそう。

また、戦場に出向いてからもこの姿勢は変わらず、前述のオルレアンでの戦いでは、胸の上部に矢を受け負傷し、治療を受けるとすぐさま戦線に復帰し、「私に続け!」と言わんばかりに力強く自軍の旗を振り、再び兵士達の指揮をとったんです。

この負傷は幸いにも心臓からは少しずれていたため致命傷には至りませんでしたが、矢が胸に刺さったんですから痛くない訳がありませんし、大抵の人ならそこで心が折れてしまうことは間違いないでしょう。

ですが、神の声に従い「私がこの国を救う」という強力な信念のもと、その後も戦い続けた強靭な精神力は、まさにストイック以外の何物でもありませんし、フランス軍の兵士たちもそういった彼女の勇姿を目の当たりにしたからこそ、「俺達はこの人を信じてついていけば良いんだ!」と思い、彼女に全幅の信頼を寄せたのではないでしょうか。

また別のエピソードをご紹介すると、その当時、兵士(軍隊)が戦地へと赴く際はいわゆる「夜のお世話係」として既婚の女性達が同行することが多かった(注)んですが、聖書の教えではそれが禁止事項に当たるため、ジャンヌは「そういうことをすると、亡くなってから神の元(天国)へ行くことができない。」と女性達を𠮟責。
注:主な役割はそれではなく、炊事、洗濯、荷駄運搬といった支援とされ、また、未婚女性も同行していたとされる。

軍隊から追い出しただけではなく、自軍の兵士達に対しても、戦争中に女性と関係を持つことを禁じたんです。

では、ジャンヌ自身の異性関係におけるストイックさはどうかというと、実は彼女には故郷・ドンレミ村にいた頃、お互いに結婚を誓い合った婚約者がいたんですが、彼女は神の声に従って故郷を旅立つことを決めたため、この話は白紙に…。

納得がいかない婚約者の男性から裁判を起こされるも、彼女は堂々と教会裁判所へと出向き、「結婚の約束なんてしていない。口約束だったんだから無効です。」と突っぱね、結果的に裁判に勝利したという、とても男前なエピソードがあるんですよ。

もちろん男性側からすればたまったものではありませんが、自身にこういった経験があったからこそ、先の女性達や自軍の兵士達に対して、そういったことを言った・決まりを作ったのかもしれませんね。

異性への愛より神への愛を選んだ彼女の…自身および他人に対しての厳しさがひしひしと伝わってくる気がします。

とにかく気が強く、怖いもの知らずだった

これもジャンヌに対して「控えめで清楚な女性」というイメージを抱いている人には意外過ぎるかもしれませんが、実は彼女は非常に気が強く、1度頭に血が上るとたとえ相手が誰であっても構わず怒鳴り散らすほど怖いもの知らずな性格だったと言われています。

言わば、「イケイケ」だったんですよ。

その証拠(?)に、彼女が自軍の兵士達と共にオルレアンをイングランド軍から奪還するべく現地へと出向く際、その防衛線の指揮を執っていた人物・バタールと合流する手筈になっていたんですが、これに納得していなかったジャンヌは、何と出迎えたバタールに対し、「私をここまで遠回りさせたのはあなたですか!?」と怒鳴り、掴みかかったんです。

ちなみに、このバタールという人物は、それまでオルレアンを治めていた先代オルレアン公の弟…つまり、貴族。

そんな人物に、しかも、初対面でケンカを売った訳ですね。
(恐ろしい・・・)

しかし、冷静かつ真面目な性格だったバタールは、ジャンヌのそんな非礼に対して怒りをあらわにすることは無かったそうです。
もしこれが他の人物であれば、時代も時代ですから、ひょっとすると彼女の命はここで尽きていたかもしれません…。

また別のエピソードなんですが、バタール達の協力もあり、無事にオルレアンを奪還した直後「イングランド軍の増援部隊がオルレアンに迫っている」という報告がジャンヌとバタールがいる王太子軍の元へ。

この報告を聞き「何だって!?」といった様子で慌てるバタールに対して、ジャンヌはまるで「ふーん。面白いじゃないの」と言わんばかりの余裕の態度を取ったそう。

それどころか、バタールに対し「敵の増援部隊が近くまで来たらすぐ知らせなさい。もし知らせなかったら、この剣であなたの首をはねるわよ!」と言い放ったんです。

自らの軍を指揮する人間に対してよくここまで言えるなと感心してしまいますが、ジャンヌ自身はそれまで戦争で戦った経験が無かったため、ある意味、若さゆえの無鉄砲さに物を言わせ、ひたすらに敵を撃退していたんでしょうね。
事実、彼女が敵に対して攻撃する際の方法は、敵の意表を突いた奇襲攻撃による突撃だったそうですし。

これだけイケイケで怖いもの知らずな性格であれば、もしも今の時代に生きていれば「街でその名を知らない人はいない」というぐらいに有名な不良娘(言い方古っ!)として名前を轟かせていたかもしれません。

では次に、ジャンヌ・ダルクという人物が、その短い生涯の中で成し遂げた偉業をご紹介します。

ジャンヌ・ダルクの偉業とは

ここまで見てきたように、敬虔なキリスト教徒でありながら、激しい気性を持ち併せていたジャンヌ・ダルクですが、そんな彼女がわずか2年の間に成し遂げた偉業とは、どういったものだったのかというと・・・

などがあります。

それぞれ順に解説すると・・・

イングランドに負け続きだったフランスを勝利に導いた

上でも触れましたが、ジャンヌはその当時行われていた「百年戦争」において、敵国・イングランドに負け続きだった母国・フランスを1度ならず何度も勝利へ導いたことから、フランスでは「救国の乙女」として知られています。

まず、彼女にとって初陣であり、1429年4月29日から始まった「オルレアン包囲戦」では、わずか1週間でオルレアンを奪還。

それだけにとどまらず、同年6月12日には「ジャルジョーの戦い」、6月15日には「モン=シュル=ロワールの戦い」、6月17日には「ボージャンシーの戦い」(いずれも詳細不明)で次々と勝利を収め、さらに7月16日にはランスという街をも奪い返すなど、彼女が率いた軍は怒涛の快進撃を展開したんです。

ところで、フランス軍はなぜジャンヌが参加するまで何十年も負け続きだったにも関わらず、ジャンヌ参加後はこのように連勝街道を突っ走ることができたのでしょうか。

それはジャンヌがそれまでのフランス軍の戦い方を一新し、消極的な戦法から積極的、いや、攻撃的なそれへとチェンジしたからです。

というのも、ジャンヌが参加するまでのフランス軍の戦い方は、何と敵に対し今から自分たちが攻撃する旨を伝えてから攻撃を開始するという、何とも変に律義な(?)ものだったほか、使用する武器に関しても、イギリスには「ロングボウ」と呼ばれる射程距離600メートルにも及ぶ秘密兵器があったんですが、フランスにはそういった射程距離の長い武器は存在しなかったんです。

ですから、フランス軍イングランド軍に対して「今からお前らを攻撃するからな!」と言っている間にロングボウを打たれて敗北するというような、まるでお笑い芸人のコントのようなことが実際に起きていたんですよ。

また、それまでのフランス軍の人達というのは、日本で言えば殿様のような身分だったため、たとえば「このタイミングで武器を放て」といったような具体的な指示を出す「指示役」がいなかったんです。
これでは当たるものも当たりませんよね。

そんな中、突如現れたジャンヌは、そういった時代遅れ(?)の戦法を次々に一新。

まず武器に関しては、大砲を使うことを提案・採用したんですが、まるで当然のように周りから反対意見が。

それもそのはず、フランス軍にはなぜかその当時、大砲はお城を攻める時だけ、つまりお城を破壊するために使うのであって、人間に対して使ってはならないという決まりがあったんです。

ですから、ひょっとすると「乙女(ジャンヌはオルレアンでの戦い以降、日頃から兵士達にこう呼ばれていたそうです)、それはいけません。大砲は敵の城を破壊するためのもので、人間に向かって撃ってはならないのです」と進言されたかもしれませんね。

ですが、ジャンヌはこれに対し「は?何言ってんのあんたたち。そんな悠長なことばっかり言ってるからこれまで勝てなかったんでしょ!いいからやりなさいっ!」という感じで、半ば(いや、おもいっきり?)強引にこれを採用。

結果、オルレアン戦だけではなく、その後のイングランド軍との戦いにも連戦連勝だった訳ですが、大砲の使用という新しい戦い方を取り入れることができたのは、おそらくジャンヌ自身が戦争に関して全くの素人だったことがプラスの方向に向いたからだと思われます。

言い換えれば、素人だったからこそ、それまでのフランス軍の戦い方を一新する革新的なそれができた訳ですし。

もちろん彼女からすれば、本来軍隊が持っている序列というものも一切関係ありませんし、それどころか初陣となったオルレアン戦において何万という数の屈強な兵士たちを従え、攻撃の先頭に立ったのは当の本人でしたから。

初陣で戦いの先頭に立つというのは、言うまでもなく凄いことですが、おそらく彼女にはそれだけの多くの人間を虜にする、付いていこうと思わせる強いカリスマ性があったんでしょうね。

そして次に、攻撃前の予告ももちろん禁止。
第一、そんなことをしていては敵に完全に気付かれ、反撃されてしまいますから。

また、奇襲攻撃を仕掛ける際に先頭に立ったジャンヌの「やっつけろ!」の一言が攻撃開始の合図となり、敵をことごとく倒していったんです。

このように消極的だったフランス軍の戦い方を積極的な戦い方へと変化させることにより、快進撃を続けたジャンヌの軍は、既述したように7月16日にはオルレアンから遠く離れたランスの街をも奪還することに成功。

これにより翌日の7月17日には、ランスにてシャルル王太子の王位戴冠式が行われる運びとなりました。

つまり、ジャンヌにとって、神のお告げのひとつが叶えられる日がやってきたんです。

シャルル王太子を国王の座へ就かせた

ランスの街を奪還したことにより、その翌日にはシャルル王太子(王位に就いて以降はシャルル7世)の王位戴冠式が行われました。

その際、ジャンヌは王の傍らにしっかりと寄り添い、その一部始終を見守り、感涙にむせんでいたと言われています。

おそらくこの時、ジャンヌの胸には「神のお告げを果たすことができた。これで我が国は救われるんだ」という思いが去来していたものと思われますが、上記でご紹介したような数々のイケイケエピソードを持つ彼女も、さすがにホロッときたのかもしれませんね。

しかし、ジャンヌの勢いはこれ以降も止まらず、自らの軍勢を率い「次は首都・パリを取り戻すわよ!」と意気込んだんです(やっぱりイケイケだ・・・)が、自身の軍勢の少なさやパリ市民の抵抗もあり失敗。

ですが、全く心が折れないジャンヌは「次はここ!その次はここ!」という感じで、母国・フランスを現状から救うために戦いを続けたんです。

この状況、本来であればシャルル7世は戦いを続けたジャンヌに対し、「若い女性なのに何て頼もしいんだ!その調子でフランスを救ってくれよ!」となるはずなんですが、なぜかこれに対して苦い顔。

なぜならシャルル7世は、当時自身と敵対していた「ブルゴーニュ派」(フランス国内での内乱で、イギリス側に加担)と呼ばれる派閥と、武力ではなく話し合いによる平和的な交渉を望んでおり、事実、その方向で話を進めていたからなんです。

若さと勢いに任せ、ひたすら武力で敵を制圧しようと考えるジャンヌと平和的交渉を望むシャルル7世。
まさに正反対の考えを持っていたことから、次第に2人の間に溝ができるように…。

そんな折、亀裂が入る決定的な出来事が起こりました。

1430年5月に開戦した「コンピュエーニュの戦い」において、何とジャンヌはブルゴーニュ派の兵士たちに捕らえられ、捕虜になってしまったんです。

この当時の決まり事として、身代金を払えば解放するというものがあったため、国王の部下たちはこぞって彼に「すぐに身代金を払ってジャンヌを解放してもらいましょう!」と進言するも、何と彼はこれを拒否。

それどころか、ジャンヌの一件を聞いて資金集めの運動を始めたオルレアン市民に対して、「何をしておる!」とばかりに、そのお金を没収してしまったんです。

ある意味、これ以上無い「助ける気ゼロ」の意思表示ですよね。

なぜそうまでしてジャンヌに対しての身代金支払いを拒否したのかについては、現在でも様々な説があるんですが、僕が思うにやはりシャルル7世は、自身の再三の注意を聞かず自分勝手に突っ走る彼女のことを、王位戴冠式以降、次第にうっとうしく感じるようになっていたのではないでしょうか。

とは言っても、シャルル7世はジャンヌの献身的な協力があったからこそ王になれた訳ですから、いくらその後の彼女の考え方や行動に嫌気がさしていたとしても、あまりにも冷た過ぎる行動ですよね。
この恩知らずの人でなしがっ!(あっ、つい本音が・・・)

そのため、現代においてもシャルル7世は多くのフランス国民から「ジャンヌを見捨てたダメ国王」と言われているんだとか。
確かに恩を仇で返したんですから、そう言われても仕方ありませんが。

ではここからは、ジャンヌの晩年について…極刑が科せられ、執行されるまでを書いていきます。

ジャンヌ・ダルクの最期

捕虜となったあと、イングランド軍が身代金を支払ったことから、ジャンヌはなんと敵軍であるイングランド軍に引き渡され、そこから数ヶ月間におよぶ宗教裁判(異端審問)を受けることになります。

裁判とは言っても、弁護士を付けることすら許されなかったうえ、裁判官をはじめ、傍聴席に陣取っているのは全てイングランド軍という、まさに「全てが仕組まれた」裁判でした。

ここでジャンヌは毎日数時間にも及ぶ事情聴取(本当に神の声を聞いたのか・もしそれが本当なら、お前は魔女じゃないのかなど、その半分以上がまるで脅しや嫌がらせのようだったとする説あり)のほか、牢獄内では鎖で繋がれた状態で監禁(何度も脱獄を試み、失敗したため)され、時には男性囚人たちから理不尽な暴力を受けたという話もあるんです。

いくら彼女がイケイケな性格で何万人もの男性兵士の先頭に立って指揮をとっていたと言ってもやはり女性ですから、特に男性囚人たちから暴力を受けたのであれば、底知れぬ恐怖を感じていたのではと推測できます。

「たられば」になってしまいますが、もし捕虜になってしまった時点でシャルル7世が身代金を払って救出していれば、ジャンヌはこんな目に遭わずに、さらに言えば後世まで語り継がれるあのような最期を遂げずに済んだかもしれません。

そもそも、ジャンヌが当時極刑と言われた火刑に処された直接の原因は「男装」でした。

彼女は戦地で戦う際に、男性用の甲冑を身にまとっていたほか、髪も元々のロングヘアーからボブカット程度の長さに整えていたんです。
当時、キリスト教では男装は禁止されていたんですが、戦場で戦いやすくするため、また、男性から身を守るために男装をしたと考えれば、やむを得なかったこと考えられます。

しかし、このことが逆に利用されたのです。

実は、この異端審問において、ジャンヌはある誓約書にサインをしてしまいました。

そこに書かれていた「2度と男装をしない」という意味にとれる文章を、文字を読めなかったジャンヌは理解することができていなかったんです。
注:制約の内容には、他の内容もあります。

その後、収監されたのは男の囚人もいる牢。
しかも、罪を悔い改めたとして、女性用の服を着ることを許され、女性用の服を着て…。

そんな状況のもと、いつ襲われるかわからないため一睡もできなかったこと、実際に襲われそうになったこと、女性用の服が盗まれてしまったことから、再び男装するようになりました・・・。

そして、男装したジャンヌを見た裁判長は彼女に対し、「おい、何をしている!誓いを破ったな?!」と、すぐさま極刑を宣告。
必死に弁明するジャンヌを無視し、1431年5月30日、ルーアンという街のヴィエ・マルシェ広場にて、刑を執行したんです。

ちなみに、異端審問において極刑に処すためには、罪を悔い改めたのちに、再び罪を犯す必要があったとされます。

そう…だからこその誓約書のサイン、その後の収監だったのです。

そんなことがあったにもかかわらず、執行前の「執行宣言」のようなものが行われた際も、ジャンヌは決して取り乱すことなく静かに耳を傾け、その後、自身が信仰するイエス・キリスト聖母マリア、大天使などに対する忠誠心と感謝を口に。
また、敵味方の区別なく、あらゆる人々に慎ましい態度で許しを、また自分のために祈ってほしいと求めたと言われています。

そして執行の直前には、その信仰心から「十字架を持たせてほしい」と懇願。
これを聞いたイングランド兵の1人が、木で作った小さな十字架を渡すと、彼女はそれを受け取ってキスをした後、身に着けていた服の胸元へと入れました。

さらに「息絶えるまで眺めていたい」との思いから、教会の十字架も持たせてほしいと依頼。

依頼が聞き入れられ教会から十字架が持ってこられると、ジャンヌはそれを非常に長い間抱きしめ、処刑台に上がるまで離さなかったと言われています。

凄まじいまでの信仰心ですね。

そして、刑が執行されました。

刑が執行されてから息絶えるまでの間、燃え盛る炎の中で、彼女はずっと声の限りに「イエス様!」と叫んでいたそう…。

最期の瞬間まで神への愛、そして忠誠心を貫きながら亡くなりました。

享年19歳。
あまりにも短すぎる生涯でした。

そして、そこから先はさらに凄惨を極めました。

何と刑を執行した執行人達(全員がイングランド兵)はそれだけでは終わらせず、そこから何時間もの間、刑を続行。
彼女の亡骸が完全に灰になるまで焼き尽くし、その遺灰を全てセーヌ川へと投げ捨てたんです。

「何もそこまで・・・」と思ってしまうほどの徹底ぶりですが、これはキリスト教の教えの中にある「最後の審判」なる「あの世へと旅立った際、その肉体があればいずれ新しい命として復活できる」というものを断固阻止するためだったとか。

既述した通り、最後の審判は肉体があってこそのものですので、それを完全に失くしてしまえば復活することはできませんからね。

このことからも、イングランド兵達がいかにジャンヌを憎み、最後の審判における復活を恐れていたかがわかる気がします。

こうしてジャンヌの肉体は滅んでしまいましたが、死去から25年後の1456年7月7日には彼女の無罪を証明するための復権裁判が行われ、見事無罪が証明され、1920年5月16日にはキリスト教におけるカトリックの聖人に認定されるなど、没後500年近くの時を経て、彼女の名誉はようやく挽回されました。


このように「フランスを救いなさい」という神の言葉を聞いて17歳で戦争に参加してから、わずか2年でこの世を去ってしまったジャンヌですが、その2年の間には上でご紹介した偉業だけではなく、現代に生きる我々が聞いても「なるほど・・・」と思える名言をたくさん遺しているんですよ。

そこでここからは、そんな彼女の心に響く名言をご紹介していきます。

ジャンヌ・ダルクの名言

ジャンヌ・ダルクの名言にはどのようなものがあるのかというと・・・

  • 全ての戦いは、まず最初に心の中で勝ち負けが決まる
  • 神は何もしない人間には微笑まない
  • 私は天使の言葉を話すために死ぬのだ
  • たとえ炎に包まれても、私は死ぬまで主張を変えません
  • あなたが何者であるかを放棄し、信念を持たずに生きることは、死ぬことよりも悲しい。若くして死ぬことよりも

などがあります。

それぞれ順に解説すると・・・

全ての戦いは、まず最初に心の中で勝ち負けが決まる

カッコ良さを感じるこの言葉ですが、ジャンヌは敬虔なキリスト教徒だったため、敵と戦う直前にはおそらく神に対し「神様、私を、そしてわが軍を勝利へとお導き下さい」と心の中で祈ってから、戦闘を始めていたものと思われます。

そう。
「私達には神様がついているんだから、負ける訳がない」という想いで・・・。
となれば、後は勢いに任せてひたすら突撃するだけですもんね。

男性同士が路上で拳を交える時でも、相手に対して全く恐怖心を持たず、ジャンヌのようにイケイケな気持ちで挑んでいく人の方が勝率が高いと言いますし。

少し話が脱線しましたが、彼女ならではの怖いもの知らずな性格と、神に対する絶対的な忠誠心と信頼そして愛があったからこそ、こういった非常に強い気持ちと考えを持ち、次々に敵軍を撃ち破ることができたと言えるでしょう。

我々も日々、自分の人生を生きる中で「もしこれを失敗したらとんでもないことになる。どうしよう・・・」と恐怖心を抱いてしまうことがありますが、そんな時こそジャンヌのこの言葉を思い出し、自身を奮い立たせたいものですね。

神は何もしない人間には微笑まない

ごくごく当たり前の言葉なのですが、ジャンヌはこのことを判っていたからこそ、初めて神の言葉を聞いてから3年後に「私がこの国を救うぞ」という強い想いで、生まれ故郷を出てイングランド軍との戦争に参加したものと思われます。

神様としても、ジャンヌがとても熱心に自身を敬い信仰していることを知っているからこそ、「この子にこの国の未来を託そう。きっとこの国を救い、変えてくれるに違いない」なる考えのもと、彼女にそういったメッセージを伝えたのではないでしょうか。

そして、これを我々に置き換えてももちろん同じであり、たとえば日頃から自分自身が立てた目標に向かって精一杯頑張っていれば、「あの人間、毎日毎日良く頑張っているな。見守ってサポートしてやろう」といった気持ちにもなります。

ですが、反対に何の目標も立てずに自堕落な生活を送っていれば、「何なんだこの人間は!誰がこんな奴のサポートなんかするか!」と呆れ、最終的に見放すことでしょう。

確かに、毎日の生活の中で時には「これはちょっと自分には荷が重くてできないかもしれない/こんなの無理だよ」といった感じで投げやりな気持ちになる、あるいは挫折を味わい、途中で投げだしてしまうこともあるかもしれません。

ですが、そんな困難にあたった時にこそ、「こういう時の自分の行動を神様や仏様はずっと見ているんだ。このまま何もしないでいたら、ひょっとしたら見捨てられるかも・・・」と危機感を覚え、ジャンヌのこの言葉を胸に自身に喝を入れて下さい。

私は天使の言葉を話すために死ぬのだ

これはおそらく火刑執行前に発せられた言葉だと思われますが、日本でも昔から知られている言い伝えとして「赤ちゃんや幼児期に亡くなった人間(ジャンヌは若年期ですが)は、あの世で天使になる」というものがあります。

この当時、ジャンヌの生まれ育ったフランスにもこの考え方が浸透していたかどうかは判りませんが、もし浸透していたのであれば、彼女は自らの命がもうすぐ尽きるその時に「あの世での自身の使命」を見い出したのでしょう。

というのも、実は天使にはあの世においていくつかの仕事が存在するんですが、そのうちのひとつとして「不幸にも母親の胎内で命を落としてしまった胎児の魂を、大人のそれになるまで育てる」というものがあるんです。

ジャンヌは敬虔なキリスト教徒であり、とても慈悲深い性格をしていたことから、きっとあの世で自身よりはるかに若い(幼い)どころか、この世に産まれてくることすらできなかった胎児の魂に対して、「あなたは生を受けることすら叶わなかったのね。これからは私があなたにたくさんの愛を注いであげるわ。」と言いながら、日々育児に奮闘していることでしょう。

とは言っても、彼女のあのイケイケな性格を考えれば、ある程度成長した魂に対しては「超」が付くほどのスパルタ教育を行っているかもしれませんが。

そんな冗談はともかく、没後600年近く経った現代の世で、彼女が天界において日々悪戦苦闘しながら胎児の魂を育てていると想像すると、どこかとても微笑ましいですよね。

若くして亡くなってしまったことから、子供を持つことが叶わなかっただけに、天界では胎児の魂達に対し、彼女が最期の瞬間まで信仰したイエス・キリストやその母マリアのように、無償の愛を精一杯注いで欲しいと思います。

たとえ炎に包まれても、私は死ぬまで主張を変えません

これはジャンヌが敵であるイングランド軍に捕らえられ、数か月間に及ぶ嫌がらせ・脅しとも取れる尋問の最中に言い放った一言とされています。

当時18~9歳と非常に若かったことを考えると、そう誰もがやすやすと言える言葉ではありませんよね。

おそらく現代に同じことがあれば、尋問されている誰しもが心身共に疲れ果て、いつ終わるとも知れないその繰り返しに対する恐怖感から、実際には犯していない罪であっても「私がやりました」と言ってしまっていることでしょう。

この言葉からは、いかにジャンヌが神からの言葉だけではなく、自らが持っている信念に基づいて物事を考え行動する人物だったのかが伺い知れますね。

この確固たる信念があったからこそ、フランス軍を幾度も勝利へと導き、シャルル7世を王位に就かせるという偉業を成し遂げることができたのではないでしょうか。

なお、ジャンヌはこの尋問期間中、この言葉だけではなく「この戦争によって私が目指したものは、真の平和。それだけです」とも言ったそうです。

母国の真の平和のために己の信念を貫き戦い続けたその勇姿は、老若男女問わず誰が見てもカッコ良いですね。

結果的には、自身の言葉通り火刑により命を落とすことになってしまいましたが、そういった彼女の生きざまが現代にまで語り継がれていることを考えれば、その影響力は凄まじいものがあると言えます。

我々現代人も、ジャンヌのようにどれだけ不利な状況に追い込まれても決して自分の主義・主張を曲げず、最後までそれを貫ける一本気な気質を持ちたいものですね。

あなたが何者であるかを放棄し、信念を持たずに生きることは、死ぬことよりも悲しい。若くして死ぬことよりも

これも上でご紹介したものと同じく信念を持つことの大切さを説いたものなんですが、「死ぬことよりも悲しい」という一文が、ジャンヌ自身、信念をいかに大切にしていたのかがわかることから、数ある彼女の名言の中で筆者が最も好きな言葉です。

これはあくまでも僕の個人的な考えなんですが、僕達を含め今この時代に生きている人達、特に日本人の多くは空気を読むことを日常的に行っていることから、「目上の人から言われたら問答無用でそれに従わなければいけない」という思いから、自身の主義・主張を口に出すことを恐れ、あるいは面倒くさく感じ、その結果、信念を持つことをしなくなってしまったのではないかと思います。

まるで、「そんなものが何の役に立つんだ!」と言わんばかりに・・・。

ですが、ジャンヌはこういった考えを真っ向から否定。
それどころか信念を持たないことに対し、「死ぬことよりも悲しい 若くして死ぬことよりも」と、人間の最期になぞらえてその大切さを説いているんです。

このことからも、やはりジャンヌが日頃からいかにしっかりとした信念を持ち、それを貫くことを大切に考えていたかが判りますよね。

いかに彼女が神のお告げを聞き、母国を救うために戦争に参加したとはいえ、やはりそれだけではなく、自身の「信念を持って行動する」という元来の性格があったからこそ、国王であるシャルル7世が疎ましく感じるほどの決断力と行動力を発揮できたのではないでしょうか。

事実、それがあったことで、何万という数の兵士の先頭に立ち、彼らを率いることができた訳ですから。

ひょっとすると、気が強いジャンヌのことですので、戦いの中で劣勢に立たされている時、兵士達から「乙女、もうこれ以上は無理です。太刀打ちできません!」と言われたとしても、「なに弱気なことを言ってる!無理と思ったら勝てるものも勝てない。絶対に勝てるんだっていう強い気持ち(信念)を持ちなさい!」と彼らを鼓舞していたかもしれませんね。

人によっては「自己主張をするよりも、周りに合わせて生きていた方が楽だ」といったような考えを持っている中で、ジャンヌのように自身の意見や考えをしっかりと持ち、信念を貫くことで自らの命を懸けて母国を救い、真の平和へ導こうとしたそのマインドを僕達もぜひ見習いたいものです。

まとめ

神の言葉を聞き、17歳で戦争へ。
母国を幾度も勝利へ導いたジャンヌ・ダルク
その勇敢さと行動力は、これからも人々の心に残り続けるでしょう。

この他にも、インド最強のシヴァ神論語で有名な孔子について書いた記事があります。

もしよろしければ、こちらも読んでみてください。

reco-kyoumi.hateblo.jp
reco-kyoumi.hateblo.jp